
1868年、大福寺の大阪府仮病院
文化7年(1810) | 7月14日、洪庵、備中足守(岡山県)藩士佐伯惟因の第三子として生まれる。 |
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文政8年(1825) | 洪庵元服。父の転勤(足守藩大坂蔵屋敷留守居役)に伴い大坂へ。(洪庵16歳) |
文政9年(1826) | 7月、中天游の門に入り西洋医学を修める。緒方姓となる。(17歳) |
天保2年(1831) | 2月、江戸に出て、蘭学者坪井信道の門に入り、次いで宇田川榛斎に学ぶ。(22歳) |
天保6年(1835) | 2月、江戸を立ちいったん帰郷。次いで大坂に出、中天游の塾で蘭書を講じる。(26歳) |
天保7年(1836) | 2月、大坂より蘭学修業のため長崎へ遊学に出る。このとき緒方洪庵を名乗る。(27歳) |
天保9年(1838) | 1月、長崎遊学を終え、大坂瓦町にて医家を開業、蘭学塾「適塾」を開く。7月、摂津名塩(兵庫県)の億川百記の娘八重と結婚。(29歳) |
弘化2年(1845) | 12月、過書町の町家(現在の適塾)を購入・移転し、大いに塾を拡張する。 |
嘉永2年(1849) | 洪庵、種痘所を開く。(40歳)翌年、尼崎町に除痘館開設。 |
文久2年(1862) | 8月5日、江戸幕府奥医師兼西洋医学所頭取に任命され、江戸へ。(53歳)養子緒方拙斎が塾生の教育に当たる。 |
文久3年(1863) | 6月10日、洪庵江戸にて突然多量の喀血により急死。(54歳) |
明治2年(1869) | |
明治34年(1901) | 洪庵の偉業をしのぶ門弟らにより「洪庵文庫」の設立が表明される。 |
昭和6年(1931) | 5月、大阪帝国大学開学式 |
昭和15年(1940) | 7月、大阪府の史跡に指定される。 |
昭和16年(1941) | 12月13日、国の史跡に指定される。 |
昭和17年(1942) | 9月、適塾が緒方家から国(大阪帝国大学)に寄付される。 |
昭和22年(1947) | 9月、新制大阪大学に改組 |
昭和27年(1952) | 11月5日、適塾記念会が創立される。 |
昭和39年(1964) | 5月26日、国の重要文化財に指定される。 |
昭和47年(1972) | 12月20日、大阪大学適塾管理運営委員会が発足する。 |
昭和51年(1976) ~55年(1980) |
文化庁により解体修復工事が行われる。 |
昭和55年(1980) | 5月、一般公開が開始される。 |
昭和56年(1981) | 7月、適塾周辺史跡公園化事業により東側隣接地に公園が完成する。 |
昭和61年(1986) | 3月、西側隣接地に公園(公開空地)が完成する。 |
※この項の記述は主に梅溪昇『緒方洪庵と適塾』(大阪大学出版会、1996年)を参考としています。